あの日、あの時、あの場から~人生は出逢いで決まる⑭~

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煩悩のかたまり

やることなすことがうまくいかず、すべて裏目に出て・・・。

 

10月のとある日曜日に、落ち込んでいる私を慰めようとしてくれたのか、

鎌倉に住む友だちたちが、私を鎌倉散策に誘ってくれました。

 

鎌倉と言えば・・・、

私はその友だちの一人と、高校2年生の時に「報国寺」の坐禅会に

行ったことがありました。

もちろん、まだ眼が痛くなる前のことです。

 

“竹寺”として有名な鎌倉の報国寺では、

毎週日曜午前7時半より、迦葉堂(かしょうどう)にて

一般の方も参加できる「日曜坐禅会」が行われていたのです。

(これは昭和34年11月から、年中無休で現在でも行われています。

 予約不要で、初心者にも丁寧に指導してくれると好評のようです。)

 

高校2年生、17歳で、坐禅?

不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが・・・、

友だちに誘われ、物珍しさ、物見遊山で、

といった感じも、もちろんありましたが、

でも、やはり、坐禅でもして、精神統一をし、

様々な邪念を振り払おう、との気持ちもあったのだと思います。

邪念の中身は忘れましたが( ´艸`)。

 

報国寺では、3つのイベントがあったと思います。

順番は忘れましたが、確か、メインイベントの“坐禅”。

そして“庭掃除”と“朝食の粥”。

 

今もそうなのかは、わかりませんが、

坐禅を行う前に、袴に履き替えました。

私たち同様、初めて参禅する人の中には、

袴の履き方がわからず、前後逆さまに履いている人もいました(笑)。

 

坐禅は確か、お線香が燃え尽きる時間行ったと思います。

そんなことも初めて知りました。

 

クッションのような丸い座布団ふうのものの上に座り、

結跏趺坐(けっかふざ)に足を組み、印を結び、

目は半眼といって、僅かに開いて45度に視線を落として・・・、

いざ開始。

 

しかし、邪念を払うために参加したのに、

これがなかなかうまくいきません。

眠くなることはなかったのですが、

無心になろうとすればするほど、

次から次へとつまらぬ事々が頭に湧いてきて・・・、

集中できないのです。

 

不思議ですね。

坐禅を組んでいて、集中が乱れてくると、

自然と姿勢が前屈みになってくるのです。

すると、私たちの背後で、

私たちの坐禅ぶりを見守りながら巡回していたお坊さんが、

姿勢の崩れた者の肩を“警策”で打ちすえ、警告を与えるのです。

 

10分も経過すると、あちこちで、“ビシッ!”という音が・・・。

 

あ、またやられてる、と思った次の瞬間、

警策が私の肩に軽く触れ・・・、“ビシッ!”

 

“いてぇ!”と思っただけで、実は全然痛くはなく、

それよりも、ビックリして、背筋が“ピーン!”とまっすぐに。

それほど、前屈みになっていたんですね(笑)。

 

それでも、その後も雑念との闘い・・・。

結局、終了するまで、そんなこんなの繰り返しでした。

 

“無我の境地”に入る、ということは途轍もないことなんだなぁ。

栄西禅師も道元禅師も、凄い人たちなんだな、などと、

わかったようなことを思いながら、

つづいては、庭の清掃。

 

これがまた、広いやら、落ち葉だらけやらで、大変だったと記憶しています。

 

そして、ようやく朝食。

朝早く、家を出たので、お腹はペコペコ。

ただし、振舞われたのは、お粥と梅干一つだったような・・・。

でも、とってもおいしく、

はらわたに染みわたるとは、こういうことを言うんだな、

とご馳走になりました。

 

そのおよそ1年後、

雑念、邪念、邪心に憑りつかれ、

悩みの塊のようになった自分が、また、鎌倉を訪れ・・・。

 

そして、散策の途中で、

胃袋を鷲づかみにされるような激痛に襲われるとは、

思ってもみませんでした・・・。

                       (つづく)