あの日、あの時、あの場から~人生は出逢いで決まる⑦~

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蜂のように刺す!

今でもはっきりと覚えています。

それは私が高校3年生だった昭和51年(1976年)6月25日、金曜日の夜8時半過ぎ。

私が家族と一緒に、テレビで新日本プロレスのアントニオ猪木の試合を見ていた時、それは起こりました。

なぜ、そこまで日時をはっきり覚えているかというと、その翌日の6月26日には、世紀の異種格闘技戦:アントニオ猪木VSモハメド・アリという「格闘技世界一決定戦」が予定されている前の日だったからです。

なので、私が前日にテレビで見たのは、VTRでの猪木の他の試合だったのだと思います。

 

そんなことはともかく、テレビの前に横たわってプロレスの試合を見ていた私は、ふと右の眼が急に痒くなりだし、無意識のうちに右手の指で眼をこすり続けていました。

すると、ある瞬間から、「うっ、痛っ!」。

右眼が急に痛くなり、涙が次から次へと溢れてきて・・・。

慌てて洗面所に駆けていき、鏡を見た時には、既に右の眼は真っ赤に充血して、痛みと涙でまともに鏡を見続けることもできなくなっていました。

 

「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と形容されたモハメド・アリではないけれど、私の眼は、まさしく蜂にでも刺されたような痛みに震えていました。

 

翌日、当時はまだ土曜日もしっかり授業はありましたが、あまりの痛さに私は学校を休み、近くの眼科に駆け込みました。

診察の結果は、「急性角膜炎」。

前の晩に眼を強くこすった際に、角膜を傷つけてしまったのだろうとのことでした。

 

あまりの痛さに眼を開けられない私は、「どれぐらいで治りますか?」と聞いた覚えがあります。

眼科医は確か1週間から10日、と答えたかと思いますが、治療としては、点眼とビタミンBの軟膏を付けて、ガーゼの上から赤外線だかで温めるというものだったと思います。

当時としては、それぐらいのことしか治療法としてはなかったのでしょうか。

 

その時点での症状は、充血、眼の異常な痛み、涙、まぶしさ。

翌日曜日は、自宅でおとなしくして、次の日の月曜日から学校には行きました。

しかし・・・、

 

黒板の字が涙でかすれて見えないのです!

耐えがたい眼の痛みと、教室の天井の蛍光灯の明かりが異常にまぶしくて、まぶしくて、両目をまともに開けていられないのです。

 

いや、正確には、角膜を傷つけたほうの目は眼帯をしていたので、もう片方の眼は大丈夫なはずなのに・・・。

同じく、まぶしくて、痛くて、涙が次から次へと流れてきて・・・。

 

板書された文字の全てが、涙とともに押し流されて行きます。

 

その日は、それ以上教室に居ることができず、午前中のうちに早退をしました。

しかし、翌日も、さらにその翌日も、症状は一向に改善はしません。

「眼医者は、1週間から10日ぐらいはかかると言ってたな。

 しょうがない。あと数日の辛抱だ。

 とりあえず、大袈裟でカッコ悪いけど、学校には黒いサングラスをかけて行こう」

 

それから1週間ほど、私はサングラスをして登校しました。

徐々に充血は治まり、涙も枯れてしまったのか、流れなくはなりました。

しかし、眼の痛みとまぶしさは相変わらず。

それを抑えるには、眼をつぶっているしかありません。

なので、授業を受けてはいても、実際にはサングラスの下で眼を閉じて、教師の説明を聞いているだけでした。

 

その後、眼の痛みが完全に取れるまでに、なんと丸2年もの月日を要するとは・・・、

その時は思いもよりませんでした。

(つづく)